空が青くて涙が出るよ

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クイーンの音楽に触れるには最適 - 『ボヘミアン・ラプソディ』感想

ロジャーが車への愛を語っている曲が現存する曲なんだと気づくのにしばらくかかりました。

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』の感想を書こうと思うんですが、クイーンにおいては本当に上記のレベルの知識しかなかった人間なので、もしかしたら「何を言っているんだこいつは」みたいな文章が出てくるかもしれません。付け焼き刃ではない音楽的知識や時代考証に基づく深い考察や解説などを求めている方はもっと別のしっかりした記事を探してそちらを読んだ方がいいと思います。たくさんあると思うので…。オススメの記事見つけたら私にも教えてください。

*ネタバレします。途中でNetflixオリジナルドラマ『GLOW: ゴージャス・レディ・オブ・レスリング』の内容(特にシーズン2エピソード5)にも触れています。ご注意ください。

 

〜ここがすごいやボヘミアンラプソディ〜

クイーン

何を今更って感じなんですが、とにかく曲が良い。歌詞が良い。良すぎる。このパワフルで素晴らしすぎるクイーンの楽曲たちを、コアなファンもライトなファンも右も左も分からない初心者たちも、映画館に行って1000円や2000円出せばみんな同じように全身に浴びることができるというのが素直にすごいです。現代の技術を駆使したカメラワークと高い画質、音響で、ライブ時の熱狂まで追体験できるという贅沢さ。俳優たちに無理に歌わせず、口パクに徹させていたのも賢い選択だと思いました。唯一無二の歌声だもの…。

みんなそっくり

俳優たちがみんな良い。似てる。演技も上手い。楽しそう。最高。ヘアやメイクや衣装を担当した方たちにも拍手。ブラボー! 

音楽作りが楽しげ

バンド組みたくなっちゃう。ドラムにコインをジャラジャラ撒いて叩いたりとかドラムにビール?撒いて叩いたりとか(楽器傷まないのか?)やりたい。喧嘩の真っ最中でもカッコいいベースのリフを聴けば「えっなにそれいいじゃん…僕も入れてよ…」って空気になっちゃうし、喧嘩しててもコーヒーマシンを死守するほどの理性は保ってるし、音楽に本気で、どんな時でも心の底では通じ合ってる感じが素敵でした。コーヒー作れなくなっちゃうと痛いしね。あとあの、「We Will Rock You」の、「想像してごらん…これを何千もの人々がやっているところを…」部分とかも映画ならではの見せ方で最高でしたね。アガる。

カメラワーク

普段なかなかカメラの動きにまで意識を向けることができない私でも「あっ今なんかカッコよかった!」と気づくことのできる、分かりやすくカッコいいカメラワークが多くて楽しかったです。ツアーバスのフロントガラスを通り抜けるショットとか、ライブ・エイドでの、高い空から降下してきて観客のすぐ頭上を通り抜けステージに向かうショットとか、同じくライブ・エイドでの、ピアノのペダルを踏むフレディの股の下を通り抜けブライアンのギターの見せ場に移るショットとか。いや、書いてて思ったけど通り抜けカメラワーク好きすぎか、私。分かりやすいからね。

猫がかわいい 

猫がかわいい。のびのびしてる。

 

〜それはどうなのボヘミアンラプソディ〜 

非の打ちどころのない聖人たちと「問題児」フレディ・マーキュリー

気になったのが、フレディ・マーキュリーだけに負の部分を押し付けて他のバンドメンバーやメアリーなど「家族」を聖人化しすぎじゃない?ということ。例えば、映画ではフレディが一人勝手にソロ活動を始めてバンドを裏切りバラバラにしたかのように描かれていたけど、実際はフレディよりも先に他のバンドメンバーがソロアルバムを出していたという話。物語の展開を決める大事なシーンだったのに、やってもいないことで責められていたのかと何だか悲しくなってしまいました。

この映画の製作にはクイーンの実際のメンバー、ブライアン・メイロジャー・テイラーが携わっているとのことで、自分が意見を言える立場にある映画で自分のイメージを落とすようなシーンを入れるのは難しいだろうなと想像することはできますし、ある程度美化して描いてしまうのは無理ないと思うんです。でも、それによって生じた都合の悪い部分、整合性のとれなくなった部分を今はいないフレディに背負わせてしまうのはちょっとフェアじゃないんじゃないかなと私は思いました。ドキュメンタリーではなくあくまでも事実を基にしたフィクションだし、この映画の中心はフレディ・マーキュリーなので、彼の苦悩や孤独感、傲慢さなどを強調して描き「乗り越えるべき障壁」を設定する必要があるのは分かるんですが、ネガティブな感情を引き起こす描写は誇張するにしてもせめて実際の出来事・行動に基づいたものにしてほしかったな…というのが一個人としての感想です。亡くなっている人は反論できないし、その人が今も生きていたらどんな感想を持っていたかなんて結局のところ本人にしか分からないんじゃないかと私は思うので、できる限りフェアに扱ってほしかったというか、それがせめてもの誠意なんじゃないかな。

ソロ活動云々のくだり以外でも、問題を起こすのはフレディばかりで、周りの人間はそれに振り回されながらも広い心で優しく受け入れてあげたんだよ、ファミリーだからね!みたいな描写が多くて、そこにあんまり私は乗れませんでした。

邪悪なゲイとストレートの救世主

もう一つ気になったのが、話を盛り上げるために物語を単純化するにしても、クィア描写があまりに雑すぎやしませんか…ということ。クィアカルチャーやクィアコミュニティを「逃れるべき悪」であるかのように描く必要がありましたか…。フレディ・マーキュリーの持つ、既存の枠に囚われない美的感覚や自由な発想力(バンドに「クイーン」という名前をつけたり)とクィアネスって切っても切り離せない関係だと思うんですけど、そのことに十分に言及しないどころか、クィアカルチャーやクィアコミュニティからは悪影響ばかり受けていたかのように見せていたのはあんまりだと思いました。70〜80年代にクィア男性として生きるのは相当に大変だっただろうとは思いますが、それはヘテロ的生き方を強要してくる抑圧的な社会が原因なのであって、そういった抑圧から解放され、素の自分でいることが許されるクィアコミュニティとの出会いやそこでの経験はあんな不穏なものではなくもっと安心感のあるものでも良かったんじゃないでしょうか。アイデンティティをめぐる葛藤を見せるにしても、クィアコミュニティに対する敬意を感じさせるような、もっと上手い見せ方ができたんじゃないかと思わずにいられません。というのも、私の最近見た、80年代が舞台のNetflixオリジナルドラマ『GLOW: ゴージャス・レディ・オブ・レスリング』ではもっと上手い見せ方をしていたから…。このドラマには、(番組内で明言はされていないもののほぼ確実に)ゲイの男性キャラクターが出てきまして、彼があることをきっかけに意図せずゲイバーに足を踏み入れるシーンがあるんですね。そこで彼は、驚きと戸惑いを見せながらも、周りを静かに見渡して、思わずほんの少し微笑みを浮かべるんですよ。「こんな世界もあるんだ」「自分は一人じゃなかったんだ」とでも言いたげな、居場所を見つけて安堵したかのような微笑みを。「異常」だと思い込んで抑え込み、目を背けてきたものが「普通」に存在している空間を目の当たりにし、思わず肩の力が抜け表情が緩んだ感じっていうんですかね…。この繊細な、セクシュアルマイノリティの視聴者に寄り添う温かい表現を目にした後だったから、『ボヘミアン・ラプソディ』内の、ゲイコミュニティ=悪!身の破滅!みたいな描写はすごく雑だし誠意に欠けているなと思えてなりませんでした。

GLOWと同じような繊細さで同じように描写しろとは思いませんが、ゲイコミュニティ・クィアコミュニティに出会ったことによってフレディが解放された面、救われた面はきっとあったと思うし、そんな救いの描写をちょっとくらい見せてくれても良かったんじゃないのと思います。そういった描写は現代に生きるセクシュアルマイノリティの人々を救うものにも成り得るから…大袈裟じゃなく…。アイデンティティの揺らぎを恐怖と共に描くのは結構ですが、フレディの音楽性やステージ上でのパフォーマンスにも色濃く影響を与えているクィアカルチャーが少なからず育まれていった場所、他に居場所のなかった者たちが安心して「自分」になれた場所でもあるゲイクラブやゲイコミュニティなどを「のめり込んだら身を滅ぼす悪の巣窟」一辺倒で描いていくのはフェアじゃないなと私は思いますね。

しかもこの「邪悪な」ゲイコミュニティからフレディを「救い出す」のがストレートの家族たちというね。分かりやすいね! メアリーがフレディを「改心」させるシーンで、「あなたは私やバンドメンバーたち家族に愛されてる、それで十分でしょ。ポールたちはあなたのことを気にかけてない。お家に戻っておいで」みたいなセリフを言ってたと思うんですけど、あまりに強気ですごくないですか?びっくりしちゃった。問題が理解できてないが故の傲慢さというか…。ヘテロ規範まみれの世界で何の疑問も感じず暮らすことができて、その世界の方が幸せだと本気で信じてる人は言うことが違うや!みたいな…。言ってる意味分かりますかね?ヘテロ的な生き方や価値観に合わない人たちを追い出し偏見の目で見てくる社会の構造があるのに、そこから逃れられるクィアコミュニティに入り浸っていれば「戻っておいで。こっちがあなたの居場所。私たちの愛があれば十分でしょ」と説得され反省させられ、マイノリティコミュニティをまるっと捨てることでマジョリティ側が「受け入れてあげる」の、すごくないですか。もうなんか展開もセリフもヘテロ視点の上から目線すぎて、映画としてはここが起承転結の転の部分で、フレディが「改心」する部分なんだろうなと頭では分かっていても、「るせ〜〜〜〜!!!!!ここがホームなんじゃ〜〜〜〜!!!!!!」と言い返してほしくなっちゃったというか…。

メアリーやバンドメンバーたちがフレディの性格や人柄を最もよく知っていて、家族として愛し合っていたんだということを否定する気はありませんし、実際そうだったのかもしれない。でも、クィア男性としての居場所は果たしてそこにあったのかな?と思ってしまうんですよね。実際のところどうだったのかは私が断言できることではないので映画内の描写だけで話を進めたいんですが、例えば、女装でのミュージックビデオ撮影後に、フレディ一人に向けられた侮辱の言葉に他のバンドメンバーが同情したり怒ったりしてくれていたかというとそんなことはなかったし、むしろ(フレディに対して)めんどくさそうにしてたと思うんです。フレディのクィアネスを正面から否定することこそしないものの、無関心を貫き通しておいて、「ポールたちはあなたのことを気にかけてない(でも私たちは気にかけてるよ)」と言ってクィアコミュニティを丸ごと切り捨てさせるのはやっぱりちょっと無理があるし傲慢なんじゃないのと私は思います。居場所なんていくつあったっていいんだし、「真の家族」のためにクィアコミュニティを捨てさせる必要はなかったんじゃないですかね。ストレートの家族たちに受け入れられて(「自分を見つけて」)初めてフレディがジム・ハットンという「善良な」恋人を得るのもなんだかなあって感じだし。クィアネスがポジティブに扱われるのはストレートの人間の承認の下でだけかよみたいな…。

あと、ポール・プレンターとフレディ、フレディとジム・ハットンとの性的なファーストコンタクトをわざわざセクハラコミュニケーションにする必要あったんですかね?非ヘテロを「欲望を抑制できない人たち」として描きたくて仕方ないのかなと思ってしまいます。

「声がない」?

これは超うろ覚えなんですが、連絡のつかなくなったフレディの元をメアリーが訪ね、自分の見た悪夢を説明するシーンで、彼女は「夢の中であなたは私の父みたいだった。何か言いたげにしてるんだけど何も言えないの。声を持ってない(you had no voice)から。」というようなことを言っていたと思うんです。ここがちょっとよく分からなくて、なんで突然お父さんの話??と思っていたんですが、もしかしてメアリーのお父さんがろう者だからそういう言い方(声を持ってないから何も言えない)をしたんですかね??だとしたら、声を使って何かを言うことはできなくても手話を使って話すことはできるし、実際に手話を使って話をしているシーンがあったし、ろう者=「持つべき声」がない/出ない人みたいなその表現は雑すぎるし無神経なんじゃないのと思いました。ここ、お父さんを引き合いに出す必要性ありました?私が何か勘違いしてるのかな?そうであってほしい…。話の展開的に「声を持っていない」ことは「確固とした自分がない」ことへの非難であり、ネガティブな意味で使ってたとしか思えないので…。 

 

〜余談〜 

アダム・ランバートがカメオ出演してたの気づきました?私は気づきませんでした。『ブラックパンサー』にトレヴァー・ノアが(声だけ)出演してたのも全然気づけなかったしそういうの悔しくなるので映画始まる直前にでっかく告知しといてくれ〜〜〜〜!アメコミ映画とかでたまに見る「エンドロール後にも映像がございます。最後までお楽しみください」みたいなノリでさ、「この映画にはアダム・ランバートカメオ出演しています。隅々までお楽しみください」みたいなのをさ…(無茶) 

 

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)

ボヘミアン・ラプソディ(オリジナル・サウンドトラック)